よくよく考えたら代車にエボ4だなんて、普通はとんでもない話なのだろうけれど。
そんな私の我が儘な注文を、『解りました、白くて大きな羽根のついた車をご用意しますね』などと笑って快諾してくれるAさんへの感謝は絶えない。
そうしてエボ4を拝借してしばらく走っていると、不意に寂しい気持ちになった。
―そう言えば、Mさんもこれと同じ車で元気に走り回っていたんだよな、と。
Mさんとの出会いはいつだったろうか?
思い起こそうと記憶を辿るが、願う場所にはついぞ辿り着けなかった。
おそらく、まだ私が学生であった時だと思う。
岡崎で三菱自動車に勤める『叔父の上司の奥さん』、という風に母に紹介されたのはボンヤリと思い出せる。
当時の彼女はおそらく30代、まだ幼く学生であったその頃の私から見ればオバサンかもしれないが、普通のオバサンの定義から彼女は大きく外れていた。
大型連休になると我が家へ遊びにやって来る、綺麗なウェーブのかかった茶髪の彼女は、スクーバダイビングが趣味で明朗快活を絵に描いたような人物だ。肌は程良く日焼けし、夏の強い陽射しと濃い青空が似合う。その耳にはピアスが輝き、時には一緒に淡いブルーのアイラインも輝いていた。何を話していてもサッパリしていて、気持ちよい会話が出来る人。
そんなイメージが私の中にはあった。
旦那さんと二人で遊びに来る度に、海辺で自営業を営む我が家の仕事を快くテキパキと手伝ってくれたり、その合間に旦那さんの白いパジェロ(ロング)でドライブに行ったり、一緒に釣りをしていたり。
旦那さんの大きなパジェロを颯爽と乗りこなす彼女は、勿論、見るからに運転も上手い。
生まれつき、背骨の形状にやや異常があり、その所為で様々な行動を制限しなければならなかったハンデを持っている私から見れば、そのMさんの元気さはまぶしかった。
私もこんな大人になりたいな、と密かに憧れていた。
やがて私も高校を卒業し、バイクや車の免許を取得した。
連休で遊びにやって来るMさんと、車の話もするようになった。
その当時の会話は、その後大病で倒れて記憶があやふやになった今の私の頭でも思い出せる。
いや、それだけは忘れたくなかったのだ。
車の免許を取った頃、私はモータースポーツに関心を持ち始めていた。
叔父の影響と言う訳ではないが、三菱の車、それもラリーに使っている車に興味を惹かれた。
電子制御された足回り、小さいながら完成されたかの様な高性能さは然る事ながら、あの鋭角的かつ無骨なデザイン。その全てを。
しかし、まだ免許も取り立て、バイクに長く乗っているとは言え運転技術の未熟な私は、憧れの車を購入したいけれど技術が伴わないからとの理由で、少し戸惑い尻込みしていた。
そんな話を彼女にすると、なんとMさんはランサー・エボリューションIVに乗っているのだと言う。
最初はそれを聞いてとても驚いたのだが、少し想像してみると彼女の快活振りとエボ4のオフェンス的イメージが違和感なく重なって、それはとても格好良いものに思えた。
そして、そのエボ4の高性能っぷりをMさんは嬉しそうに話してくれた。
『あんな外見でしょう?なんか若い男の子の乗ったスカイラインとかに追い回されたりするんだけど、どうって事ないわね、相手にならないわ』
などと、笑いながらとんでもない事をサラリと言う。
更に私が当時発売されて間もないランサー・エボリューションVの話を持ち出すと、
『あら、いいじゃないエボ5。あれって4よりゴッツイ感じだけど格好イイと思わない?私あれに買い替えたくなって試しにエボ4の下取り価格聞いてみたんだけど140万だなんて言うのよ、ちょっと安過ぎる気がするんだけど仕方ないから諦めたわ』
と、1年しか乗っていないのに!と悔しそうに、そして微笑みながらも残念そうに話してくれた。
この人なら本当にエボ4を下取りに出して買い替えかねないな、と言う勢いがそこにはあった。
一瞬、Mちゃんのお下がりのエボ4を譲って貰いたいな、と話の途中で喉まで出かかったが、それは厚かましいなと思い飲み込んだ。
エボ5に比べてややスマートなエボ4の方が、Mさんには似合うなぁと思ってもいた。
『あんたエボ5買っちゃいなよ、いいよエボは』
と軽い感じで勧めてくれもしたが、余計に迷ってしまった。
その頃、私はMさんを『ちゃん』付けで呼んでいた。そこに何も問題が生じない程に実年齢より若く見えたMさんへの憧れは強まっていた。
そうしてしばらくして、やっぱりエボ5にしよう!と意を決して叔父に在庫の問合せをしてみると、時既に遅し。数量を限定して生産しているのは知っていたが、間に合わなかった。
代わりと言ってはなんだけど、倉庫にエボっぽい車が残っているからカタログを送るよ、と言われて勧められたのが、GALANT SUPER
VR-4のパルマーレッドだった。
カタログを見るなり、そのスペックの高さとド派手な外観に強く惹かれたのだが、運転技術へのコンプレックスもあり、その頃母のボロボロのコロナ(トヨタ)の走行距離が20万キロを超えていたのもあって、所有権を母に譲ったのだった。
ついでに言うと、長く倉庫に眠っていた為に驚くべき値引きもあって、それも大きな魅力だった。
実家の周囲は悪路ばかり。母には高性能な車に乗って欲しいとの希望もあったので、所有権を母に譲ったのだが、今思えば高性能過ぎた気もする。
かくして、我が家には白いランサーではなく赤いギャランがやって来て、私の周囲にはハイパフォーマンスな車に乗るファンキーなオバサンが二人に増えた。
それは見ていて、少し微笑ましく愉快なものだった。
当時、仕事で使っている船の操船技術も、免許を取って数年しか経過していないバイクや車の運転技術のどちらも私は未熟で、それはちょっとしたコンプレックスだった。
普段乗っているだけでは技術の向上は望めないなと考えていた私は、その後中古でミラージュ・アスティのRSを購入し、かねてから興味のあったモ−タ−スポ−ツを始めた。
それだけでは飽き足らず、Mさんへの憧れの勢いも余ってか、きちんと勉強しようと足繁く教習所に通い、一昨年2003年夏までに地元の自動車学校で取れる免許は残す所は大型自動二輪と二種免許の2つだけとなった。
最早、運転技術へのコンプレックスは薄れていた。
次にMさんが遊びに来たら、また車の話がしたいなと私は楽しみにしていた。
その間にも、Mさんの乗る車について知りたいと、営業のAさんに無理を言って事ある毎にエボ4を借りて乗ってみたりした。その度に、ランサーへの憧れとMさんへの憧れは強まっていったが、会いたいなと思う時には会う機会が減っていた。
Mさんの身内に不幸があったなどの理由もあり、毎年の様に遊びに来ていたMさんが連休になっても遊びに来れなくなっていたのだった。
Mさん達の来訪を恒例行事の様に感じていたので、その時は少し寂しく思った。
寂しく思っていただけだった、その時までは。
世間では長いお盆の連休も終わり、私の仕事の方も普段の落ち着きを取り戻そうとする八月の下旬。
Mさんが突然の病で入院したとの知らせが来た。叔父からの電話であったように思う。
それを聞いても、あれだけ快活だったMちゃんが入院??と実感がなかったし、まして遠く離れて暮らしているのだ、余り深刻に心配はしなかった。
あんなにパワフルなんだから、すぐ退院して『心配をおかけしましたー』なんて電話して来るよと母と話しながら思っていた。本当にそう信じていたし、私はそれを心から願っていた。
それからしばらくした9月24日。
母方の祖父母宅に同じく母方の従兄弟達が集まって夕食を囲む機会があった。
ほんの2.3日前に誕生日を迎えた従兄弟を祝福する意味と、近々旅立つ従兄弟を送り出す壮行会の様なものを兼ねての夕食だったように記憶している。
その時、従兄弟の皆は親しいMさんが病で入院している事を知っていた。その病状が思わしくない事も知っていたので、その夕食の時に『Mさんの全快を祈って』と乾杯してのを覚えている。
まだ私の携帯電話には、その時の模様が画像として残っている。
ファイル名も当時の日付けのまま残していた。
翌日、昨夜Mさんが亡くなったとの知らせを受けた。
私達の願いが届く事はなかった。
しかし、遠く離れたMさんの家へ葬式に行く事もなかった私には全くその実感がなく、ただ出来事として記憶されているに過ぎない。『信じられない』と言う言葉とは違うものが、私の中にはあった。
それがなんなのか?その頃の私には解らなかった。
Mさんの訃報を知らせる言葉がゆっくりと、何度も何度も頭の中を駆け巡っていたが、それを理解出来ないまま、時間だけが過ぎて行った。
訃報から数日経ったある日、Mさんの旦那さんから『生前はMが大変お世話になりました』との内容の電話があった。普段は母が取るその電話を、その日は偶然私が取った。
旦那さんの声とすぐに判ったのだが、その声は私の知っている以前の様な覇気がなく、沈んだ声の調子は、Mさんが本当にいなくなったのだなと言う悲しい現実への実感を、少しずつ深めていった。
それからしばらくの間、私はAさんに頼んでエボ4を借りる様な事をしなくなっていた。
普通に、代車にはコルトやミニカを借りていたし、丁度自分が仕事用にとセディアワゴンを購入した事で代車が不必要になっていた。
ギャランを購入して以来、車の話題に興味深そうにしていた母も、『Mちゃんのエボ4、どうなったんだろうね』と時々ポツリと話すだけで、車の話題そのものが減っていた。
―無意識にエボ4を避けていた事は、最近まで気づかなかった。
2004年の梅雨が来る前に、私はまた一つ免許を取得した。
今度は車とは関係ない、バイクの、それも大型自動二輪。通称T限定解除Uだ。
その教習直前、指導員の先生が度々教習所を訪れる私を他の生徒さんに紹介する時、『この人も激しいぞー、見ちょってみ、何でも乗るけぇの(見ていろ、何でも乗りこなせるから)』と一言添えた。
その言葉は何だか気恥ずかしかったのだが、正直に嬉しかった。その頃の私の活発さを激しさと大袈裟に言い換えた先生の言葉は、私がMさんと出会い求めていた憧れの一部だったからだ。
そうしてこの夏久し振りにエボ4を、セディアワゴンの車検の代車にとAさんから拝借した。
何気なく乗っていて数日が経ってから、唐突に『ああそうだ、Mちゃんもあの頃コレと同じ車に乗ってたんだよなぁ』と思い出した。
そんな事をぼんやり考えていると、長いトンネルを走行中に視界の端が僅かに歪んで来た。
鳥肌が立つ様な冷たく寂しい気配の中、それを振り払おうとほんの少しの間アクセルを踏み込む。
私の気持ちとは裏腹に、勢いよく加速して行くランサー・エボリューションIV。排気音がトンネル中に響き、時折ウィンドウがビリビリと振動した。力強い音だった。
やがてその長いトンネルを抜けると、濃い緑の間から、微かに海が見えて来る。
じわりとブレーキを踏みながら、ギアを落として行く。サードからセカンドへ。
少し遅く出勤していた途中の、海の見える峠。Mさんもいつか走った同じ道で、私はゆっくりと減速して海が見える路肩に停車する。熱を持ち易いエボ4のエンジン〜ボンネット上の、わずかに揺れる蜃気楼越しに海が見下ろせた。
ドアを開け外へ出ると、夏の終りに秋を運んで来る風が少し冷たく気持ち良かった。
それは、いつもどこか颯爽としていたMさんによく似ている。
Mさんの命日が近づいていた。
連休が来る度に、Mさんがもう遊びに来る事はないのだと思い出して、とても寂しい気持ちに襲われる。
『いつかMちゃんのエボ見せて。乗ってる所を』と軽い気持ちで私が言うと笑いながら、
『ここまで来るのは大変だわ、あんたが遊びにおいでよ』と言っていたのを思い出す。
…その後、彼女のエボはどうしているだろう。旦那さんがパジェロと一緒に持っているのだろうか。大切な奥さんの愛車だから、まだ持っているに違いないだろうと思いながらも、それを聞いて確かめる事はしなかった。確かめたくなかった。
あれから私はコンプレックスを克服しようと、曲がりなりにも努力した。
大きな交通事故に遭って動けなくなった時も、取り締まりをしていた警察官と勢い余って喧嘩した時も、免許をいくつも取って勉強し直した時も、その先にはMさんが居た。
たくさん痛い目に遭って、反省して、努力して、少しは大人になったところをMさんに見て欲しかったからだ。でも、そんな日はもう永遠に訪れない。
よく映画や小説で、故人を『彼女は僕の中で永遠に生き続ける』みたいな言い回しをするが、それは当らずしも遠からずだなと実感した。
その人についての記憶が、誰の中からも忘れ去られてしまう時が本当の『死』なのだと、突然理解した。
エボ4で走っている時、赤いギャランを見る時、実家にある海辺の駐車場に立つ時、確かにそこにはMさんが居た。それらを介して、まだMさんと繋がっている気がしてならない。
同時に、普段口にする事がなくても、憧れなくして人は生きて行けない事も理解した。
突然訪れた早過ぎる別離を受け入れるのに、私には二年余の月日が必要だった。
そして、出会いや別れについて考えさせられる。
Mちゃんがランサーを私に勧めてくれなかったら、ギャランは購入していなかっただろう。
ギャランを購入していなかったら、出会わなかったかも知れない沢山の人々もいるだろう。
また、憧れを抱かなければ変わらなかったであろう自分のもう一つの未来を想うと、それはとても寂しいものだった。それらの車を介した出会いが、別れが、まだ続くであろう私の人生の至る所を彩ってくれている。
―あの時、Mさんが私に車へと興味を向けてくれなかったら。
きっかけは本当に些細な事だったが、今は溢れんばかりの感謝の気持ちで満たされ、またそれを伝えられない事の辛さで胸が痛んだ。
いつかは私も、Mさんの様にランサーに乗りたい。今でも憧れている。
そうして得られた環境や人付き合いは、それをきっかけに変わって行った自分も含めて大事に続けて行きたいと思う。
憧れだった彼女の一部は、今また私の一部としてこれからも生き続けるのだから。
僕らは出会い続ける
この情熱が冷めぬよう願いながら
その足を 明日に向けて
―Mさんの冥福と追悼の意を込めて。
2005年9月1日 ヨシタカ。